「昭和から令和へ マイスターの精神」

新しい時代の幕開け

ニクソンショックの影響を分析した博の手記

多軸フライス「デッケル」

 時は戦後、物もお金も乏しい東京。細い体で一心にものづくりに打ち込む男がいた。有限会社 笠原製作所の創業者 笠原博だ。真面目で働き者の博は勤務先のハーモニカ工場から40歳で独立し、1960年に旧保谷町に小さな工場を構えた。当時の作業環境はとても快適とは言えなかった。蒸し暑い手狭な工場の奥からは溶接のバーナーや鍛冶場で刃物をたたく音が聞こえてくる。通信手段が限られているためか、顧客との打ち合わせに出入りする人はひっきりなしだ。
 そんななかで博はこれまでの経験を生かした緻密で独特な工法を職人たちに伝授し、「常に公差内の中央を狙うように」と徹底的に指導をした。機械精度を下げる土埃を入れないためには工場の窓を閉め切るほどだった。博の加工精度は誰が見ても一流であり、「加工の神様」と呼ばれることさえあった。
  高度成長期ーいわば「物を作れば売れる時代」。それでも博は決して一獲千金の道に逸れることなく、加工の本質を追求し続けた。その精神はドイツ製の多軸フライス「デッケル」やフランスの技術を搭載した「カズヌーブ」といった世界屈指の”名機”と融合し、こうして治工具専門の「小さな工場」は、創業20年目には「精密加工会社」へと広く知られるようになった。 

新たなる挑戦

行雄が使った小径ドリル

行雄が加工したワークの断面

 そんな業績が上向きだった1980年。誰も稼働させることができない「怪物マシン」が、新設された別館に数か月間も居座っていた。それは牧野フライス社製の初代マシニングセンター4軸制御。新たな未来を託され導入された高性能マシンだが、汎用世代の職人たちにとってNC(コンピュータ数値制御)の概念は理解不能だった。おそるおそるハンドルを回しては、ツールホルダーに装着した鉛筆で紙に線を引く。そんな不毛な月日が流れ、社内からは「動きが怖すぎる」「導入は失敗か」という落胆の声も聞こえた。そんな中、入社間もないボール盤専属の若者に一縷の望みが託される。後に2代目となる笠原行雄だ。行雄は「フライス盤も扱えない自分が、4軸のNC制御を扱えるのだろうか」という不安を抱きつつ山梨県のFANUC研修施設に向かった。「Gコード」「オフセット」「パラメータ」…。聴き慣れない用語が飛び交う研修所はまるで異次元の世界だ。しかし理数系出身の行雄はその整然とされた概念全てを的確に手中に収めていく。研修は終わった。経験の浅いかつての新人は、覚悟を決めた次世代の新星として帰ってきた。
 行雄の挑戦が始まる。いわば揺籃期のマシニングセンターゆえのトラブルに夜遅くまで付き合いつつ、NCとフライス両面の原理と格闘する日々が続く。時には図面表記されていない4軸の曲線加工の数値を拾うために、製図台で図面を拡大描画し数値を特定することもあった。こうした強気の姿勢は1軸加工から4軸加工への飛び級を実現させる原動力となった。
 あの「怪物マシン」の登場から20年後、行雄は先端マシンと人馬一体となって躍進していた。時には本場ドイツも断念するような難易度の高い仕事をこなすこともある。プレッシャーを物ともしない強気な2代目は、数々の先端技術研究所の中で頼もしい存在として知れ渡っていた。NCの技術革新が進行する時代において、20年前の「NC導入」という選択が正しかったことは誰の目から見ても明らかだった。

”ものづくり”とは何か

NC傾斜円テーブル

NC傾斜円テーブル

 21世紀に入り、時代はIT化へ。あらゆるものが合理化に向かう中で、3代目の啓樹はもがいていた。子供のころから”ものづくり”とはほぼ無縁。工具もほとんど手にしたことがない。毎日夜遅くまで習得を重ねても不安が先行し、信念と言える程のものを見いだせない。強いて確信できることといえば「自分は熟練工にはなれないだろう」という観測だった。その一方で、国際競争や加工の精密化が加速する時代に速やかに順応する必要があった。
 ”ものづくり”とは何か。啓樹はその答えを探るべく、「営業」と称しては様々な町工場に立ち寄り、その文化や精神を汲み取った。車両整備や理髪店などを訪れる際には必ずその道の熟練者から何かを吸収することを決めていた。時にはラップ技術のヒントを得るために水晶研磨工場に立ち寄り、熟練工の熱い話に何時間も耳を傾けることもあった。そんな中、啓樹は旅先で出会った年配の元商社マンの言葉に心を打たれる。

  「マイスターになりなさい。
 誰も追いつけないほどのマイスターに。」

 ついに本質を悟った啓樹は、それ以降あらゆる汎用機や治具の構造を徹底的に研究した。朝早くから微細な刃物研磨の技術を体に叩き込んでは、夜遅くまで難作材加工や小径穴加工のデータを収集し続けた。原理の追求やあらゆる壁に向かって行くその姿勢はついに発想の拡張をもたらした。時同じくして導入した5軸制御のマシニングセンターを駆使し、数々の会社が断念した「5軸多面傾斜加工」や「傾斜交差穴加工」といった難易度の高い加工を次々に達成していった。一方で「顧客からの信頼」を基本理念とする啓樹は徹底した品質プロテクトシステムを考案し、大手分析機器メーカーから技術品質両面での最優良評価を10年以上にわたって会社にもたらすことにも貢献した。
 平成育ちの3代目は熱い思いで原理に向き合い、こうしてマイスターとしての継承を遂げていった。